第1話 拝啓この旅の行き先へ。【カタルシスレコード】(著者:雨崎 涼葉)
目の前の少女を見る。
彼女は、不思議な雰囲気を纏っている少女だった。
黒髪に黒い目。それは、日本人としては当たり前というか、不自然な感じを抱くことはないけれど、でもどこか不思議だった。
西洋人みたいな容姿をしているから?
いや、それは違う。そもそも今の世の中、日本に西洋人やハーフがいることはもはや当たり前である。
彼女の雰囲気が何からもたらされているのか、私にはわからなかった。
花月弥生(かづき・やよい)はそんなことを考えながら、窓の外へ視線を移した。
視界に映るのは、窓に反射して見える自分自身のつまらなそうな顔。
イスから伝わってくる体を揺らす振動しか、今は楽しめるものがなかった。
ちらりと横目で自分の思考の中心にいる少女を見た。
弥生は、その少女――アリスとどうやって出会ったのかまるで覚えていなかった。
高校の頃、席替えで隣になって意気投合したのが初対面だろう、とアリスは言った。
それは、その通りなのだ。
しかし、アリスが同じクラスだったということを、弥生はその席替えまで知らなかった。
違和感があるわけではない。仲が良かったわけではないのだから、記憶が曖昧なのは仕方がないかもしれない。
それにしたって。
「アホらしい」
考えるのをやめた。
そんなことはどうでもいいのだ。何故なら私は今、とても疲れているから。
県外の大学へ通うため、一人暮らしをするためバイトをしたり家を探したりと準備を進めてきて、ようやく今日が旅立ちの日だった。
朝早く起き、これからしばらくは食べられない母の手料理を味わって、そして準備をして、家を出た。
父も母も寂しそうな顔をしていたが、泣いてはいなかった。
二人目だからな、私は。
弥生には姉がいた。
年齢が5つ離れていて、――これは身内びいきな意見になるが――才色兼備の見本になるような人だった。
弥生は、そんな姉が大好きだった。
姉は家から通える大学へ進学し、考古学者となった。
今は、日本にはいない。
世界のどこかで遺跡を発掘しているのだろう。
――早くお姉ちゃんに追いつきたいな。
弥生も姉を追うようにして、同じ道を選んだ。
姉より少し偏差値の低い県外の大学の、文学部歴史学科。
そう、そして慣れ親しんだ家を出て、最寄りの駅。今弥生の目の前に座っている少女、アリスと落ち合った。
彼女もまた弥生と同じ大学、同じ学部に進学するのだ。
だから同じアパートを借りて、隣の部屋に住むことになった。
一緒には住まない。面倒だから。
しかし、そこでアリスが家に携帯電話を忘れたと言い出して、タクシーで慌てて家に戻り、あわや電車に乗り遅れる、といった事態に陥ったのだ。
結論を言えば間に合ったのだが、駆け込み乗車をしたため電車内のアナウンスで注意され、とても恥ずかしい思いをするハメになった。
あんなに走ったのは、中学の陸上大会以来かもしれない。
そんな騒動の種である少女は、弥生の目の前で新聞を広げている。
つまらない。いつになったらトンネルを抜けるのか。あまりに長過ぎないか。
そもそも私がこんなに疲れているのは、アリスのせいなんだ。
それなのに私をこんなに退屈させるなんて、酷いんじゃないか。
私に構うべきだ。話相手になるべきなのだ。
段々と腹が立ってきたのか、弥生の口角はどんどん下がっていき、ついにはアリスから新聞を奪い取った。
手に持っていた新聞が突然消えたことに驚いたのか、アリスは目をぱちくりとさせて、弥生を見た。
「え、何するの?」
「暇!」
「そう言われても。何か本でも読んでいれば?」
「本なんて、持ってきてないよ」
「じゃあケータイでもいじっていたら?」
「もう!」
じれったそうに苛立った顔をする弥生を見て、アリスは笑った。
弥生から新聞を取り返し、自身が読んでいた記事が見えやすいように畳んで、弥生に見せる。
「ほら見て、これ!」
「え、何……? ”人間が不死に到達する時代がきた”? なにこれ。低俗なオカルト誌みたいね」
「いいから、先を読んでみて」
「えーっと、”DNA末端に存在する塩基配列の反復構造であるテロメアは細胞分裂のたびに短くなっていき、一定以下になると細胞が分裂しなくなり、細胞死を迎える。これが老化の原因である。しかしこのテロメアを伸長する酵素があり、これをテロメラーゼという。このテロメラーゼは人間は不活性であるが、ガン細胞はこれが活性化されており、細胞を不死にする。このガン細胞を用いることで短くなったテロメアを伸長し、不死を目指す研究が長年行われてきたが、今年2月に米国の大学の研究所でラットでの実験で初めての成功が認められ、これから臨床実験に向かうための準備が……” わからないからもういいよ」
「もういいって、興味ないの? 人間が不死になれるかもしれないのよ? 不死になりたくないの?」
「アホらしい……」
アリスは夢見がちな性格だった。
本が好きで、高校生の頃は毎週色んなジャンルの本を図書館で借りては読みふけっていた。
アリスは、理系クラスに所属していた。
生物化学が好きで、理系の科目はいつも学年1位だったのを覚えている。
生物系の大学に進み、そこから知識を広げていって分野を決めて、研究者になるのが夢だと、いつか弥生に語っていた。
しかし、彼女は今、弥生と同じ歴史学科に通うために同じ電車に乗っている。
おかしい。
弥生は最初そう思った。
あんなに生物の勉強が好きだったのに。
あんなに夢を語っていたのに。
今だって、こんなによくわからない理科系の話を嬉々としてしているのに。
今でも鮮明に思い出せる。
あれは、私が廃墟巡りが好きだと話したときのことだった。
――私も行ってみたいな。
アリスはそう言った。自分の好きなものに興味を持ってもらえて嬉しくない人間などいるだろうか。
私はすぐに場所や日時を決めて、一緒に行くことを約束した。
その日を楽しみにして、毎日眠りについていた。
当日、朝早くに家を出て、長時間電車に揺られて予定の場所へと向かう。
太陽が真上に昇る時刻。
そこは結構有名なところで、軍事工場だった。
覚えている。確か、人はいなかった。
そこは割と有名なところで、以前来たときはまばらにだが、人がいた。
しかし、その日はいなかった。
日当たりもよく、光りと陰のコントラストが虚無感を醸し出していて、とても美しかった。
アリスも「きれいなところだね」と言っていた。
そのまま私たちは進んで行って、奥の部屋に差し掛かった。
私が最初に入って行って、アリスが後に続いて部屋へと足を踏み入れた。
そこは屋根が崩れて地面に転がっていて、ほとんど外と変わりないような空間だった。
アリスがおぼつかない足取りで、部屋の壁側へと進んで行った。
――ふらふらしてたら危ないよ。足元注意してね。
そんなことを言ったような気がする。アリスには、聞こえていないようだったけれど。
彼女は壁に右手をついて、外や壁をキョロキョロと眺めだしたかと思ったら、急にこちらに振り向いて、言った。
――これかも。私が探していたのは。
その後、アリスは興奮した様子で中を見て、夕日が沈む前に電車に乗って、家へと帰った。
彼女はそのとき文転を決意したようで、3年生に進級したときには同じクラスになった。
理系のクラスに進学するはずだったのに。
後から知ったことなのだが、担任の教師もとても驚き、何度もアリスと話をしたそうだ。
しかし、彼女の意思は固く、結局私と同じ道を歩むことになった。
窓の外を見る。やはりまだ暗い。
――トンネル長いね。
――そうだね。
アリスに言うと、簡単な同意の言葉が返ってきた。
そして彼女は再び新聞を眺める。
「私、長生きがしたいの」
「どれくらい?」
「私の探していることが見つかるくらい」
「探していることって?」
「わからない」
「……そう」
急に、外から光が差してきた。
――眩しい。
私は目を閉じない程度に瞼をおろし、無意識に眉間にしわを寄せた。
アリス側に太陽があるため、アリスは全然眩しくなさそうな、涼しげな顔でくすくすと笑っていた。
そうして、彼女は私のためにカーテンを下した。
「ありがとう」
「いいえ。今日は良い天気ね」
「ほんと、絶好のお引越し日和だね」
「新しいところお散歩するにはいいかもね」
「でも今日は朝から疲れたから、引っ越し作業に集中したいな」
「あら、嫌味ったらしい」
私たちは同時に笑った。
外を見る。
全然見覚えのない風景だ。
今はどこを走っているのだろう。
地理感がないから、よくわからなかった。
「あ、見てみて弥生、山が見えるよ」
「雪が残ってるね。とっても綺麗」
「あれなんて山かな?」
「え? 富士山でしょ?」
「へえ、あれが。初めて見た」
私は驚いてアリスを見た。
日本を象徴する山を知らないなんて、一体どれほど世間知らずなのか。
確かに彼女は自分の興味のあること以外は知ろうともせず、いろんなことに無知ではあったけれど、まさか富士山まで知らないとは。
「一般常識だよ」
「でも、山の名前なんて興味ないもん」
「興味なくてもこれくらいのことは知ってないと、この先苦労するよ?」
「はぁい」
やる気のなさそうな返事。
この子はいつもそうだ。
変わってる人。それが彼女に対する第一印象だったし、今でも変わらずそう思っている。
「それより、楽しい話をしましょうか」
「それよりって……。富士山くらいちゃんと覚えておいてよね。まぁとりあえず、引っ越し先の部屋がある程度片付いたら周囲を散策しようね」
「近くに安いスーパーがあるところを選んだから、まずはそこに行ってみましょう」
「うん、それと大型の本屋さんもあるみたいだからそこにも!」
「なにかいい専門書とか売ってるといいなぁ」
「あ、家具とか食器とかも見なきゃ!」
「そうだった。本棚とか現地調達なんだった。それは早くしないと……」
「テレビとか!」
「今時テレビなんているの? ほとんど見てる人いないのに?」
「ゲームがしたいからね! スーパーで野菜買って、自炊したいなぁ……」
「私も。近くにあった野菜の売ってるスーパー潰れちゃって、簡易食ばーっかり食べてたから、飽きちゃった」
尽きない話題に、アリスは新聞を畳んで膝の上に置いたまま、ずっと二人で話していた。
作:雨崎 涼葉